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作品タイトルとコンセプトを考える

タイトルもコンセプトも宙に浮いている今の作品


作品を説明するというのは、これまで特に躓きを感じていなかった。というのも、説明が先に立って描いていたから。コンセプチュアルな作品だったからなのだが、いま制作している作品は、依然と同じく廃墟をモチーフにしているとはいっても、その描きぶりは似て非なるものになっているのだ。


具体的に言えば、以前は前提として風景を描いていたのが、今回はモチーフを描いているという、いわば風景画から静物画に変化しているということだ。風景画としていた頃は「変容を余儀なくされる地方の姿」として描いていたものが、静物画となると同じコンセプトが使えない。とすると、「ふるさと」としていたシリーズと同列には扱えないということだ。


もう一つの問題として、今回の作品ではかなり恣意的なタッチを加えているという違いがある。以前は印象派的な、現場でのスケッチというような写生的な描画がコンセプトを体現するうえで有効だったから、それを採用していたと、表向きには言うことができていたのだが、あまりに恣意的な描画が増えると、写生とは言い難くなる。ある種の心象風景に見えてくるし、表現主義の作家に近いテイストになってくる。


と、同時に、現代においてはそのような形式的な問題が些末な、どうでもよいことに思われ、僕自身もそうした生真面目な振る舞いにうんざりしているところもあり、深く考えずに「グッとくる」描画を試みているにすぎない。


さらに重要なこととしては、「変容する地方」なるものをことさら主張することにばかばかしさを感じるようになったということがある。これまでこだわっていた「東北」だの「地方」だのというのが、途端にばかばかしくなったというか。その卑屈さ、ルサンチマンに寄り添えなくなってしまった。これは単に、40歳を超えると多くの人に共通して起こる心の動きなのではないか。「40にして惑わず」的な。もちろん、インターネット化、アートの国際化が浸透したことなどから、東京>地方(東北)というヒエラルキー構造が取るに足らないものになってしまったということもある。いずれにせよ、その構文が有効ではないと判断されるようになってしまった。


(自作について海外の人に説明するとき「東北が~東京が~」とか言っても「はあ?」って感じでしょう)


(自分が強く主張するということは、それに依存しているのであって、それを捨てることは自分の存在意義を捨てるような感じがして、必死に強く抱き留めていたのだ。でも、もう必要なくなった)


さて、そのうえで、自作のタイトルをどうしようか、コンセプト、ステートメントはどうしようかと、頭を悩ませる羽目になってしまった。それを導き出すために、メモ的にこの記事を書いている。


この家屋を見て、僕は全く悲観的な気持ちにならない。ただただ、人工物と自然物の交わり、崩壊と有機的な変容や生成に関心があるだけだ。シームレスで、入り混じっている。そのダイナミズムを、コントラスト強めに、明瞭度高めに捉えていきたい。


でも実は、心に秘めたコンセプトは存在するのだ。それは、これまで表に出てこなかった、しかしずっと秘められていて、奥底に眠っていたものが目を覚ますような、そしてそれが時空を超えて現れてくるような、そういう力強さをテーマにしようと考えていて、それは別のモチーフを並置しないと見えてこないのだけど。

© 2019 TAKURO GOTO

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